天皇の料理番(2/2) 昭和四十年に篤蔵が書き残したものです。

私たちの修業時代と様子がちがってきたのは、あたりまえ


明治36年、16歳の年に、私は華族会館の見習いに入り、3年の修業ののち築地の精養軒につとめた。 

多くの古い人たちがいっているとおり、むかしの修業はじつに激しいものであった。 
野菜のむきものでもしているとする。

通りかかった先輩が、手もとをジロリと見る。 

下を向いていてもカンでわかる。 
と、案の定、やにわにガンと頭をなぐられる。 

それでも、だまってむきつづける。

今度は足をイヤというほど蹴とばされる。

ヨロヨロッと倒れそうになりながらも、左手の野菜も、右手の庖丁もしっかり握って放さない。 
すると、『バカヤロウ。 こうやるんだ』と、手をとって教えてくれる。 

そこで、『ありがとうございます』と、ていねいにおじぎをするのである。 

煮物をしている。 

とたんに、ガンとくらわされる。 
よろけながらも、鍋にしがみついていると、

『そんなやりかたで何ができるんだ。 こうやるんだよ』と教えてくれる。

鍋にしがみつきながら、『ありがとうございます』である。 

まことに、乱暴といえば乱暴、だが禅味たっぶりな教育方法である。 

つまり、自力で悟れというのである。

教えてもらうのではなく、先輩の持っているものを引っぱり出せといういきかたである。 

これがつらかったかというと、ちっともつらくなかった。 

習いたい、覚えたい、上手になりたいという気持ばかりが先に立って、金銭や出世を目標にしていないので、そういう仕打ちにたいしても、いっこう腹が立たないのである。 

いってみれば、人間が相手でなく、技術だけが相手だったのである。 

技術にたいして頭をさげていたわけであった。 

いまの若い人たちは、まるっきり様子がちがう。 

ひっぱたくどころか、『それはやりかたがちがうよ』と注意したぐらいで、プンとむこうへいってしまうものもいる。 

そんなのは極端な例だが、おしなべて、腕を上げたいという熱意よりも、この仕事で収入を得るという意識のほうがはるかに強いから、どうしても腕のほうは二の次にならぎるをえない。 
それは、一面やむをえないことである。 

いまの人は、生活というものを非常に大切に考える。 

食って、生きていくばかりでなく、生活を楽しむということを重視する。 
いきおい、経済第一にならざるをえないわけだ。 

このことは、あながちわるくばかりはいえないことである。 

それに、基本的人権というものが尊重されるようになった。 
当然のことだし、喜ばしいことだ。 

だから、私たちの修業時代と様子がちがってきたのは、あたりまえのことといっていい。 
つまり、時代が変わったのだ。

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変わりなく大切なことは自分の仕事にたいする真剣さ
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いったい、ものごとには、時代によって変わるものと、変わらぬものがある。

社会制度・生活形態などは〈変わる〉ものであり、人情・人倫の基本というようなものは、どんな時代になっても〈変わらぬ〉ものである。 

コックの修業のしかたについても、おなじことがいえる。 
変わる要素と、変わらぬ要素があるのだ。 

いわゆる《理論》や《技術》は、むかし15年かかって修業したことを、いまでは4,5年で覚えてしまわなければならない。

人工衛星がいくつも地球のまわりをまわっており、欧州まで1日で飛んでいけるという時代に、むかしのやりかたを踏襲しようというのは、するほうもさせるほうも愚の骨頂だ。 

むかしの修業のムダな部分を省けば、4,5年でじゅうぶんやれるのだ。 

しかし、料理人としてもっとも芸術的な要素である《センス》の修業となると、これはほとんど変わらぬものだといってよい。 

やはり多くの経験の積みかさねが必要だ。 

そして、こればかりは、教えられたり教えたりできるものではなく、その人の天分と努力によって、みずから会得し、あるいはつくりあげるべきものである。 

それだけに、これとても『何年何十年とやらなければ~~』などと、むかしのような考えかたをしてはならないものと思う。 

要するに、時代が変わったのだ。

だが、時代が変われば、また何か新しいものが生まれてくる。 

料理の味というものは、万代不易こうなくてはならぬというものではない。 

これもひとつの芸術であるから、その時の材料で、その時にもっともうまいと考えるものをつくればよいのである。 

おなじ畑からとれたダイコンでも、一本一本味がちがうのである。 

日の当たりかげん、土質の相違、育ちかげん、抜いてからの時間など、いろいろな原因で微妙なちがいができてくる。 

その一本一本の特質を見きわめて、それにふさわしい煮かたをし、味つけをするのが、料理の極致である。 

つまるところ、うまければよいのだ。 
だから、新しい時代感覚の転換期がやってくると、そこに新しい味覚の標準ができてくるはずである。 

絵にしても、ミヶランジェロに最高の美を感じた時代もあれば、セザンヌやゴッホが風靡した時代もある。

マチス、ピカソの時代もある。 
いいものはいつまでも残るけれども、味わいかたの標準はずいぶん変わってくる。 

それでいいのであって、むかしのことをとやかくいっても、はじまるものではない。 

料理もおなじだ。 

しかし、私は、声を大にしていいたい。

 『自分の仕事にたいする真剣さ』

こればかりは、どんな世の中になっても、変わりなく大切なことであって、それがまた、食って生きていくのにも、生活を楽しむうえにも、ぜひ必要なことなのである。月刊食堂4月号「若い調理師のために」

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