小園安名司令-2

小園司令は、かって横須賀鎮守府の名参謀として知略をふるい、戸塚長官や幕僚たちまで震え上がらせた猛将です。


厚木基地では、敵戦闘機や爆撃機をなんと120機も撃墜、そのうち80余機は、あの空の要塞B29の撃墜です。
若い士官たちは、小園司令を心から尊敬していたのです。

その小園司令のあまりにも変わり果てた姿に、山梨少尉は、青年らしい怒りと、同時にその理不尽な姿に、悲憤の涙を流したのです。

小園司令に対する裁判は、その日のうちに判決が出されました。
判決は、「党与抗命罪」です。
そして失官し、無期禁固刑が言い渡されました。
これが昭和20年8月から10月にかけての出来事です。

昭和27年、サンフランシスコ講和条約が発効しました。
けれど、小園司令が刑務所から出所となったのは、昭和28(1953)年になってからのことでした。

出所した彼は、生まれ故郷の鹿児島県加世田(かせだ)市に帰り、そこで農業をしながら、静かに余生を過ごされました。
そして昭和35(1960)年11月4日、家族に看取られて57年の生涯を閉じられました。

中田整一さん書いた「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」という本があります。
いまは講談社文庫にもなっています。
その本の中に、淵田美津雄氏が戦後、小園司令に会われたときのことが書いてあります。
その日、小園元司令は、「あの時降伏などするのではなかった」と、快活に語っていたとのことです。

たしかに客観的に考えてみると、終戦当時日本をさんざん悩ませていたB29は、終戦後まもなく戦場の第一線から姿を消しています。
なるほど、終戦までの時点では、B29は世界最強の空の要塞でした。
高度8000メートルで飛来するB29に対し、零戦などの旧型戦闘機は、どんなに頑張っても高度6000メートルがやっとであり、まるで勝負にならなかったのです。

これを小園大佐は、作戦をもってB29の高度を下げさせ、さらに飛行機の銃頭を斜め上に向けることによって無理矢理弾を届かせるように工夫し、B29を撃墜していたのです。

ところが同じ頃、日本の長崎の工廟では、ジェットエンジンの開発が行われていました。燃料は麻油です。
これが量産段階にはいっていれば、日本は戦争に勝ってしまったかもしれないのです。
なぜなら、当時世界最強だったB29は、大東亜戦争終結後まもなく戦場から姿を消していますが、速度が早く、上昇高度が高いジェット戦闘機の前では、ただの空に浮かぶ速度の遅くて的の大きいただのネタにしかならなくなったからです。

このエンジンを搭載した戦闘機や爆撃機が登場していたら、おそらく戦況は一変していたことでしょう。
なぜなら、ジェットエンジンを搭載した航空機の前には、当時のいかなる戦艦も航空機も、まるで歯がたたなかったからです。

けれど、陛下の大御心は、戦争の終結を望まれました。
なぜなら、日本が戦況を一変させる前に、もうあと2?3発の原爆を日本は投下された危険があったからです。
そうなれば、何十万の無辜の民が死ぬ。
陛下は、戦いに勝つことよりも、無辜の民の命を守ることを選択されたのです。
そのおかげで、私達は生きている。
そのご恩を、やはり私達は、しっかりと感じ取る必要があるのではないかと思います。

それともうひとつ。
今日、どうしてもお伝えしたいことがあります。

それは、日本の社会では、実績があり誰からも慕われる偉人が、必ずしも幸運な晩年をすごしてはいないということです。

小園司令は、数々の武勲をたてた空の勇者であり、大東亜戦争末期には帝都上空を守る最精鋭航空隊の司令に任ぜられるという優秀さに加え、部下からもたいへんに慕われる、まさに「立派な帝国軍人」です。
にもかかわらず小園司令は、戦争が終わると、こんどは逆に精神病患者という扱いを受け、拘束着を着せられ、刑務所に入れられ、日本がサンフランシスコ講和で独立を回復してもなお1年、刑務所から出してもらえず、晩年は細々と農業を営み、静かにこの世を去っています。

歴史をたどれば、土佐藩の改革に見事な実績を残した野中兼山、治水事業で実績を残した水戸藩の松波勘十郎、関宿藩の船橋随庵も同様に、さみしい晩年を迎えています。
これはいったいどういうことでしょうか。

ひとつ思うのは、人生の最後がどうあれ、民衆のために、そして国のために藩のために、誠意をもち、勇気をふるい起こして人生を捧げ抜いたという意味において、小園司令もまた、まさに「我が人生に悔いなし」という誇りを胸にお亡くなりになったのではないかということです。

そしてそれは、何にも替えがたい、至高とさえいえる人生の勲章なのではないかと思います。
さみしい晩年を送りながら、なぜ、それが至高といえるのか。
それは、彼らが日本人であり、日本人としての価値観を濃厚に持った方々であったからです。

人生の目的や価値を、名聞名利においたのではない。
人生の目的や価値を、立身出世や経済的成功においたのではない、ということです。

日本人は、古来、肉体は滅び、形あるものはいつか壊れても、魂は連続し、永遠に営むと考えてきました。
いいかえれば、心は不滅なのです。
一年草の雑草が、生えては枯れ、また翌年にはつぼみを出して花をさかせるように、人もまた、生を繰り返す。
人は、繰り返し産まれ、生き、そして死んで行く中で、自己の持つ魂をより至高なものに成長させていく。
そして、より多くの人々の幸せのために生きることが価値あることとするならば、今生の名聞名利や経済的成功などよりも、やるべきことをやりぬいた、という人生にこそ、価値があるといえるのではないか。
それが、日本人の日本的考え方であったように思うのです。

小園司令については、いまでは、賛否両論、さまざまな評価がなされていると聞きます。
けれど私には、そのような他人の評価など、なんの関心もありません。
それ以上に、小園安名という人が、この日本にいて、国土防衛の柱として、見事その人生を捧げられた。
そのことに、私は最大限の感謝をし、また小園安名司令という人が、私達日本人と同じ日本人であったことを、心から誇りに思うのです。

誰からも慕われ、偉大な実績を遺した者が、偉大であるがゆえに逆に放逐され、酷い目にあわされる。
そういうことが我が国の国史には、度々出てきます。
小園司令も、そのなかのお一人です。

けれど、古来日本人は、人生においてもっとも大切なことは、今生における名聞名利ではなく、より多くの人の役に立つこと、自己の確かな成長にある、としてきました。
仮に世の中の価値観がひっくり返り、自分が放逐されたり殺されたりすることがあっても、それでも「やり抜いた」、「信念を遂げた」ということを、大事にする民族であった、ということです。

伊藤博文が初代内閣総理大臣になったとき、彼は「俺もようやく殺される身になった」と喜んだそうです。

そしてその通りに暗殺されてこの世を去りました。
内閣総理大臣になるということは、何かを変える人になる、ということ。
変えれば、恨まれることだってある。
恨まれれば、殺されることだってある。
つまり、暗殺されるということは、一面においては世に貢献した証でもあるわけです。

博文の維新の先輩たちは、みんな殺されました。
だから自分も殺されるに値する人間になろう。
我が身大事ではなく、世のため人のために生きるということは、そういうことなのではないか。
それが日本人古来の価値観なのではないか。

もうひとついうならば、日本人は人を殺すことを忌み嫌います。
人を殺すくらいなら、自分の命を絶つ。それが日本人です。
従って、自らが日本人として生き抜こうとするならば、それを暗殺しに来る者は、日本民族ではない。
そうした思いも、伊藤博文にはあったのかもしれません。

たとえ殺されようと、信念に生きる。
たとえ、晩年苦しい状況に追い込まれようと、それでも戦う。使命をまっとうする。
小園司令にも、そうした日本人の日本人らしい面を、みてとることができると思うのです。
そしてそのことが、昨日の記事のテーマでした。

今日は、その小園司令の前半生について書いてみたいと思います。
そこから私達は、何を学ぶことができるでしょうか。

小園司令は、明治35(1902)年のお生まれになりました。
旧制川辺中学校を経て、海軍兵学校卒業し、空母龍驤の飛行隊長や、第十二航空隊(以下、十二空)の飛行隊長を歴任されています。

昭和13(1938)年4月29日のことです。
漢口で蒋介石軍の戦闘機と大規模な空中戦が行われました。

友軍は九六式艦上戦闘機30機です。
対する敵の戦闘機は90機。三倍の敵です。

当時は、ドッグ・ファイトの時代です。
この戦闘で、自ら出撃し、陣頭指揮を執った小園司令は、敵戦闘機の半数以上を撃墜し、しかも自軍は、ほぼ無傷(被撃墜2機)という大戦果を挙げています。
圧倒的戦果という以上に、もはや伝説とまでいえるすさまじい戦果です。

昭和16(1941)年10月、つまり大東亜戦争開戦の2か月前には、小園司令は、台湾に新設された台南航空隊副長(飛行長兼任)に任命されました。

ここで小園司令は、本来なら士官と下士官、兵を厳密に区別する日本海軍としては異例の体制をひきます。
なにをしたかというと、「完全な実力本位の教育体制」をひいたのです。

台南空は、第一一航空艦隊に所属しています。
いま思えば、まさにツワモノ揃いです。
司令長官 塚原四二三中将
参謀長  大西瀧次郎少将
司令   斉藤正久大佐
飛行長  新郷英城大尉
零戦の搭乗員には、坂井三郎、笹井醇一、宮崎儀太郎、西澤広義、太田俊夫らの精鋭がそろっています。
当時、国内最強どころか、まさに世界最強の航空隊搭乗員を擁する航空隊だったのです。
小園司令は、そのなかにあって、これをさらに強化したのです。

そして12月8日、大東亜戦争が開戦となります。
大東亜戦争開戦といえば、真珠湾攻撃ばかりが強調されますが、実は同時にフィリピン攻略戦も、同時に行われました。

フィリピンは、当時日本だった台湾(本当はいまも日本です。そのことについては、また稿をあらためます)の目と鼻の先にあります。
そしてそこは米国の極東における根拠地であり軍・政・経の中枢だったところです。

そのフィリピン駐屯の米軍の最大の脅威は、米空軍でした。
とくに、B17爆撃機は、我が軍にとって最大の脅威だったのです。
逆にいえば、これを叩けば我が軍は制空権を得ることができ、これにより制海権も生まれ、上陸作戦の実施も可能となるわけです。

つまり、すべては初動段階で、どれだけのB17を叩けるかにあった。
日本の心をつたえる会

※明日のメルマガに続く

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック