支那事変は支那が起した(2/2)

いまどきの左翼は、二言目には、かつての日本は軍国主義だったとか、日本が支那を侵略したのだというけれど、そもそも支那の治安を悪化させたのは支那人自身です。


ドイツ式装備と教練によってすっかり精鋭に生まれ変わり、しかも日本に8倍する世界最大の兵力をもって、日本を叩こうとして、徴発の限りを尽くしていた。

世界の戦争は、常に「軍事バランスが崩れたとき」に起こります。
つまり、どちらか一方が、強烈に「強く」なったときです。
客観的にみれば、当時のアジア情勢は、国の形を失った支那において、軍閥という国際法の適用外の無法者集団が、日本に8倍する兵力と武力を持ち、日本に対して楽勝できると日本を侮り、大陸にいた日本を徴発して起こしていたのです。

日本はあきらかに劣勢でした。
だからこそ日本は、通州事件のような乱暴狼藉に遭いながらも、我慢するしかなかったのです。
それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。

不戦を希求する日本に対し、支那国民党は8月13日には、こんどは上海において、3万の蒋介石軍が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していたわずか4200名の日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃をしかけてきたのです。(第二次上海事件)

この第二次上海事件については、8月31日付のニューヨークタイムスが、次のように報じています。
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【外国人は日本を支持】

上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。
日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。

「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。
しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。
日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。
だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)
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当時のニューヨークタイムスは、常に日本に対して批判的だった新聞社です。
とにかく日本について良いことは一切書かない。まるで昨今の日本のメディアみたいなものです。

ところがそのニューヨークタイムスでさえ、上海事変については「支那の一方的な攻撃によって、上海の戦いが始まった」と伝えざるをえなかったのです。

この頃、上海の共同租界には日本人が3万人余り居住し製造業、商業などに携わっていました。
そしてその居留民保護のために、日本の海軍陸戦隊2200名が上海租界の居留民保護にあたっていました。

ところが支那国民党軍が、いきなり租界の外側の非武装地帯に大量に侵入してきました。
そこで日本の海軍陸戦隊は、急遽約2千の増援部隊を集めたのです。
それが、上記記事にある、「増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかった」と書かれている「増援部隊」です。
日本は、本格的な戦闘に発展することを恐れたのです。

一方、上海租界を包囲する支那国民党軍は、ドイツ式装備を施された精鋭部隊の88師を主体とする3万の大軍です。
そして国民党軍は、兵力と火力にものをいわせて、13日から日本の海軍陸戦隊に対して攻撃を始め、14日には、航空機による爆撃を含む一斉攻撃をかけてきたのです。

こうして史実を冷静にひとつひとつ積み重ねて行けば、戦争を仕掛けてきたのが、明らかに支那側であることがあきらかです。
日本は望まない戦に引きずり込まれたにすぎません。

さらにいえば「条約に基づき駐屯している軍、および民間人に対して正規軍で一斉攻撃をかける」という行動は、国際法上は、たとえそれが自国内のことであっても「侵略行為」です。

従って、支那事変が、支那国土内で起こった事件であったとしても、これは「支那による日本への侵略戦争」である、というのが、客観的に見た支那事変開戦の真相です。

ただし、歴史において客観的に「何が真実なのか」という科学性を大事にするという精神は、これは日本人固有の精神です。

以前にも書きましたが、支那人や朝鮮族にとっては、古来、「事実」も「史実」も、実際にあったほんとうの出来事を意味しません。
彼らにとっての「事実」や「史実」は、「そうありたい、そうあってほしかった」という願望であり、勝ってしまえば、征服してしまえば、実際にあった真実など、いくらでもねつ造し、変造し、偽造できる。
すなわち、彼らにとっての「真実」は、覇者にとって、彼らにとって都合のよいことが「真実」なのであって、事実は関係ないのです。

要するに、「と、日記には書いておこう」という希望、願望が、彼らにとっての「真実」だ、ということです。
この点、客観的事実を重視する日本人とは、考え方がまるで違う。

ちなみに当時の支那では、日本に対する主戦論が圧倒的に優勢でした。
農民を除く都市の住民たちは、日本との戦争を熱望し、勝利を確信していたのです。
そりゃそうです。
兵力は8倍。軍備は世界最強。
これで勝てると思わない方がどうかしています。

このことは、当時支那で発行されていた新聞各紙を見れば一目瞭然でで、加えて支那共産党や支那の地方軍閥たちは、自分たちは蒋介石政権よりももっと抗日的であると主張することで、知識人などに主導された過激な世論を味方にしようとしていました。

実際、支那共産党は、抗日を最大の政治的な武器とし、なんと昭和6(1931)年11月の時点で、中華ソビエト共和国を名のり、翌昭和7(1932)年4月26日には、中華ソビエト共和国中央政府の名により日本に対して公式に「宣戦布告」まで発しています。

こうして戦えば必ず勝つの心意気と、入念な準備、圧倒的な兵力のもとで、支那国民党が支那本土内で日本に対する侵略行為として開戦に至ったのが、支那事変(日中戦争)です。

ところが、あにはからんや。
世界最強の近代装備に身を固め、ドイツ式教練を受けた支那軍は、戦地のことごとくで寡兵の日本軍に敗退し、支那中を追いまくられた。

そして日本が占領した地域は、昭和20年の終戦時まで、きわめて平和で治安の良いエリアとなったのです。日本の心をつたえる会

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