天神山城浦上城主ご一族と、日笠・青山城一族

浦上敏臣様

天神山城跡の関係資料ご返却、正に受領致しました。勝手にお届け致し申し訳なく思います。何卒、僭越の段は平にお許しの程をお願い申し上げます。

私は、S19年父の召集も有り、大阪から母の里であり私の生地である現津山市に疎開しました。その生家には、津山城一部が移築されており(下の櫓門と上の門)、何故なのだろうと子供心に思い続けておりました。この問題は今も正確には判明しておりません。

しかし、当時祖母の妹の嫁ぎ先「和気の日笠家」の来訪が多く、日笠家とは何者かと思っておりましたが、分からず仕舞い。しかし、今回の件で改めて日笠家に照会し、先祖が坂上田村麻呂後裔と聞かされて育ったと聞かされ、文献と一致しております。しかし、津山城との関係は不明に付き調べて行きたいと思っております。

そして浦上家との関係は、Yafoo !
Japan検索に寄れば、

天正二年(1574)春、宇喜多直家が浦上宗景と断交し、一年半にわたって両者は激戦を繰り広げたが、青山城・日笠頼房は宗景補佐に徹し、最後まで宇喜多氏に抵抗した。天正三年(1575)四月十二日、天神山攻略を目指す宇喜多氏の軍団は青山城に進軍し、「日笠青山之下」で野戦が行なわれた(黄薇古簡集)。直家もまた、青山城を攻略し尾根伝いに天神山に侵攻するルートを考えたのであろう。四月十二日の青山城下での合戦については、浦上宗景の感状数通と共に頼房の添状が残されており、日笠牛介ほか頼房の一門衆と竹内氏ら宗景直臣たちが宇喜多軍相手に激しく応戦したことを確認できる(同)。頼房自身は彼らの戦功を主君宗景に注進し、感状を調進するなどしており、宗景と一体となって活動していた。

青山合戦からおよそ五ヶ月後、日笠頼房は宗景を守って播州へ落ち延びたものの、天正十年(1582)に鵤庄(兵庫県太子町)で不慮の最期を遂げたと伝わる(日笠賢氏『日笠荘』)。青山合戦以後の青山城については何ら史料が残されていないが、天神山落城と相前後して宇喜多氏に攻略された可能性が高い。

「日笠氏は自称するところによれば坂上田村麻呂後裔の一族であり、田村麻呂の子孫の日里宇の代に若狭国日笠(現在の福井県三方上中郡若狭町日笠)に居を構えた際に日笠姓に改めたという。

その後、平安時代、白河天皇治世の時代に日笠親政が備前国和気郡に移り住んで、水精山に日笠青山城を築き、以後日笠氏が治めた事でその地は「日笠」と呼ばれるようになったという」とか。従って築城だけは、青山城は、天神山城よりは古るかった様です。何れにしましても日笠家は、浦上家と命運を共にさせて頂いた様です。今後共宜しくお願いします_(._.)_。

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安東満雄
メールアドレス m-andou509@hcn.zaq.ne.jp
ブログ http://mituo-sangakukai-happy.at.webry.info/
茨木市在  S31-H10在勤
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